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仙台高等裁判所 平成3年(ネ)329号 判決 2000年3月16日

控訴人 齋藤幸夫

<他1名>

右両名訴訟代理人弁護士 青木正芳

同 袴田弘

同 西口徹

同 髙橋治

同 佐川房子

同 岡田正之

同 阿部泰雄

同 佐藤正明

同 犬飼健郎

同 増田隆男

同 小野寺義象

被控訴人 宮城県

右代表者知事 浅野史郎

右訴訟代理人弁護士 小野由可理

同 八島淳一郎

同 東海林行夫

右指定代理人 安藤秀幸

<他8名>

被控訴人 国

右代表者法務大臣 臼井日出男

右指定代理人 遠山廣直

<他2名>

主文

本件各控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実及び理由

第一申立

控訴人らは、「原判決を取消す。被控訴人らは連帯して、控訴人齋藤幸夫に対し金一億一〇〇〇万円、控訴人齋藤ヒデに対し金三三〇〇万円及び右各金員に対する昭和五九年七月二六日から支払済みまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決並びに金員請求部分につき仮執行の宣言を求めた。

被控訴人らは主文同旨の判決を求め、なお被控訴人国は担保を条件とする仮執行免脱の宣言を求めた。

第二主張

請求の原因及びこれに対する答弁等は、原判決の当該欄の記載と同じであるので、これを引用する。なお、当審においても多くの主張がなされたが、その基礎的な事実関係は原審における主張のそれと共通しているものが大部分であるので、この欄に掲げることはしないで、後記第三の判断欄にその骨子を記載し、それに対する判断を示すこととする。なお、原判決二二頁末行の冒頭に「当初から」を加える。

第三判断

一  本件は、強盗殺人、非現住建造物放火の罪により死刑判決を宣告された控訴人幸夫に対し、再審による無罪判決が確定したことを承けて、控訴人らが、宮城県警察の行った捜査の違法性、検察官が行った捜査を含む公訴の提起・追行の違法性、裁判所の職権行使の違法性を理由に国家賠償を求めた事案である。このように再審による無罪判決の確定により、右各機関が行った行為は誤りであったと評価されたのであるが、このことが直ちに右各機関が行った行為が国家賠償法上も違法であることを意味するものではない。刑事事件は、捜査の開始から公訴の提起を経て判決の確定に至るまで発展的に進行するが、その各段階においてそれぞれの機関に要求される行為基準が異なり、求められる嫌疑の程度も異なるのであり、捜査機関が逮捕、勾留等の一定の強制力を行使しようとする際には、それぞれ法定の要件を充足する必要があるのであって、それら実体上、手続上の要件を具備してなされたものである以上、後に結果的に誤りであると評価されることになったとしても、それら行為をもって国家賠償法上違法であるということはできないのである。このことは検察官による公訴の提起・追行、裁判所による職権行使に関しても同様である。そして、その判断資料としては、それぞれの行為が行われた当時に存在し、かつ、各行為者が認識し得た資料を基礎とすべきであるし、判断時点もその行為当時を基準とすべきである。

以上の法理について理解を得る目的で、敢えて比喩的に歴史に置換えて言うならば、再審裁判が、新たに発見された証拠でもって確定原裁判及びその基礎となった全資料を批判・検討し、先になされた判断が誤りであったとするものであることからして、歴史の場合には、新たに得られた史料を手に、現在の視点から過去を見て、関係する歴史記述の全部または一部を書換えるのに等しいわけである。書換えられる前の歴史は誤りであるとされ、それまで史実とされていたものは実はそうでなかったということである。

一方、再審無罪判決を前提とする国家賠償請求訴訟は、本件のいわゆる不提出記録のようなものは別であるが、原則として右の如き新たな資料を知らないまま、しかも書換えられたのちの歴史の側からではなく、すなわち「今にして思えば」というのではなくて、当時の視点に立ち、その時点に存在した資料に基づき、そこでなされた判断や行為について、その当否以上のもの、つまり違法の有無を探ろうとするものである。元の歴史家とても、当時として探索できる限りの史料を素材にしてこれを吟味した上で、歴史の記述をしたのであろうが、この探索・収集や吟味が故なく十分になされなかったことが明らかになれば、その歴史記述が単に誤りであったとされる以上に、非難を受けることになろう。この種訴訟における違法性の意味・性質については、このように理解すべきであると考える。

当裁判所は、このような基本的観点から、当時の各機関が行った行為の違法性の有無を判断することとする。

そして、控訴人らは当審で新たな主張も行っているが、基本的には原審における主張と同様であって、違法な別件逮捕であってその要件が欠如していたこと、捜査官も検察官も、本件ジャンパー、ズボンに当初から血痕が付着していなかったことを認識していたが、少しでも被疑者、被告人の無実を推測させるような証拠があればそれについての吟味を尽くす義務があること、本件掛布団襟当の血痕は偽造であること、証拠の総合的な評価の視点から、検察官には本件ジャンパー、ズボン等について鑑定を行うべき責務があったこと等を指摘しているが、これらについての当審の認定、判断は基本的に原判決と同様であるので、次項において原判決に対する補正、付加を行い、更に次の項で、当審における主要な主張についての判断を加えることとする。

二  原判決に対する補正、付加

1(一)  一一六頁七行目に「書証は全て成立に争いがない。なお、」とあるのを削除し、一一七頁初行から次行にかけて「第二二四号証」とあるのを「第二二三ないし第二二七号証」と、同じ行に「第五六九」とあるのを「第四八八ないし第四九〇号証、第五六九号証」と改め、同じ行の「第五七〇号証、」の次に「第五八〇号証、」を加える。

(二) 一一九頁三行目に「最に」とあるのを「際に」と、一二四頁六行目及び一二七頁六行目に「大津」とあるのを「大津丞」と、同頁八行目の「受けた」からその行の末尾までを「受け、勾留状が発付されて原告幸夫は」と改める。

(三) 一二八頁一〇行目の「第一項」の次に「各号」を加え、一二九頁三行目の「アリバイ」を「行動、つまり、どこで何をしていたのか」に改める。

(四) 一三一頁三行目に「非現住」とあるのを「現住」と、次行の「発行」を「発付」と改める。

(五) 一三五頁九行目に「大津」とあるのを「大津丞」と改める。

2(一)  一四五頁三行目の次に行を改めて「また、証人千葉彰男及び同佐藤好一の各証言によると、当時、原告幸夫は松山事件に関する物盗りの線における最有力容疑者と目されていたところ、仮に同人が真犯人であるとすれば、自殺や逃亡を図ることが危惧されたため、これを防止するために捜査機関の側で高橋を同じ房に入れさせたというのであるから、捜査機関側のとったこのような措置を目して相当でないとすることもできない。」を加える。

(二) 一五四頁六行目の「受けていること」の次に「(丙第六一三号証)」を、「具体的で」の次に「、その内容に多少の変遷はあるものの、大筋において」を加える。

(三) 一五六頁四行目から次行にかけての「死刑はともかく相当な重罰に価する」を「死刑以外の刑は殆ど考えられない程の」に、一五七頁六行目から七行目にかけての「気付いたこと」を「気付き」に、同頁七行目の「古川拘置支所に移管されたことも認められる」を「他の場所に移されて同じ房に居なくなった」と改める。

(四) 一五九頁初行から次行にかけて「無責任にそうしたようであることから」とあるのを「そのような応対をしたに過ぎないと考えられるので」と改める。

3(一)  一六一頁八行目に「一〇時前」とあるのを「一〇時前後」と、同九行目に「丙第五六九号証等」とあるのを「丙第五五二、第五六九、第五八〇号証」と、同末行に「丙第七七四号証」とあるのを「丙第五五二号証」と改め、一六三頁初行の「そのために」の次に「供述の任意性を疑わせるに至るほど」を加える。

(二) 一六九頁二行目の「(二)」の次に「(3)及び」を加える。

(三) 一七五頁二行目に「(1)及び(14)」とあるのを「(5)及び(15)」と改める。

4(一)  一八二頁五行目に「一五日」とあるのを「一三日か一五日」と改め、同頁七行目の「丙」の次に「第四六八、」を加える。

(二) 一八六頁七行目に「あせた」とあるのを「さめた」と改める。

(三) 一八八頁四行目に「巡査部長」とあるのを「警部補」と改める。

(四) 一八八頁末行に「八三七」とあるのを「二〇」と、次頁八行目に「黒海老」とあるのを「黒海老茶」と改める。

(五) 一九一頁五行目の「明らかであり」の次に「(乙第二一号証の九の二の平塚着衣鑑定を参照)」を加える。

(六) 一九二頁二行目の「原告幸夫に」から四行目の「あるから、」までを「第二次再審請求に際しての請求人取調調書によると、原告幸夫は、古川警察署で松山事件について取調べられた際本件ジャンパーを示されていて、それが自白した際に当夜の着衣であるとして供述したものであると述べているのであるが、原告幸夫の捜査官に対する供述調書中にはそのような事実は現れていないし、仮に原告幸夫が右のように述べたことがあったとしても、前記の供述内容に照らすと、これが当夜原告幸夫が着用していたジャンパーであることが」と改める。

(七) 一九三頁四行目の「しかし」から次行の「わけではないので」までを「そして、原告幸夫は前記のように本件ジャンパーを示された際に同時に本件ズボンも示されたというのであるが、これについてもジャンパーの場合と同様のことが言えるのであり」と改める。

(八) 一九八頁八行目の「二人の」から一〇行目の「思われ、」までを「美代子についてはもとより、加藤にしても、事件当夜に限らず原告と顔を合わせていたところからすると、事件当夜の着衣と他の機会における着衣とを混同している可能性があることは否定できない。そして、」と改め、一九九頁二行目末尾に続けて「この判断は、原告幸夫の着衣や履物等に関する他の関係人らの供述内容を考慮しても、変わるものではない。」を加える。

(九) 二〇二頁二行目の「前記」の次に「の『洗濯という条件を考慮しても、最初から血痕は付いていないように感じた』との趣旨にもとれる」を加え、次行の「血痕反応は出ないであろうと予測できた」とあるのを「血痕は付着していないと思った」と改める。

(一〇) 二〇五頁四行目の「思われるし、」から二〇六頁三行目末尾までを「思われる。しかも、原告幸夫の当時の着衣を確定しうるほどの事情もなかったことは前記のとおりであるから、これらの事情を併せ考慮すると、捜査官として、洗濯が血痕反応に与える影響についてまで鑑定をする必要ないし法的義務があったとは言えない。」と改める。

5(一)  二〇八頁初行の「一三」の次に「、一四」を、同三行目の「第七〇二号証」前に「第二二八号証、」を加え、同八行目に「履物」とあるのを「履物類」と、次行、次頁五行目及び二一三頁一〇行目に「発布」とあるのをいずれも「発付」と改める。

(二) 二一一頁六行目の「鑑定の結論は、」の次に「第一 掛布団については、」を、二一二頁一〇行目の「襟当」の前に「5」を加え、次頁初行の「5」を「なお、」と改める。

(三) 二一八頁初行の「丙」の前に「八、」を加える。

(四) 二二〇頁初行の「大津」を「大津丞」と訂正し、同三行目に「毎日」とあるのを削除する。

(五) 二三〇頁初行の「三」を「一三」と改める。

(六) 二三一頁七行目の「及び同平塚静夫」を削除し、二三二頁初行の「証言しており」とあるのを「証言し、証人平塚静夫は、一応肉眼で見たところ、血痕様のものが付着しているのを認めたが、数は少ないという印象があると述べ」と改める。

(七) 二三四頁五行目の末尾に続けて「これは同人の本件訴訟における証言においても原則的に維持されており、」と加える。

(八) 二三五頁初行の「供述」とあるのを「第二次再審請求事件差戻審の昭和五四年一月二〇日の証人尋問における証言」と改める。

(九) 二三八頁初行の「)」の前に「、甲第八号証」を、同八行目の「本件訴訟においても」の次に「、現像は県警本部で行ったと思うとするほか、」を加える。

(一〇) 二四二頁初行の「確定審では、」の次に「第一審の第二回公判で検察官から右調書の証拠調請求があり、弁護人がこれに同意したことから、第三回公判で取調べられているところ(丙第二四三、第二四四、第二五五、第二五六号証)、」を加える。

(一一) 二四五頁末行の「同趣旨」から次頁初行の末尾までを「ネガの保管状況につき明確な供述ができない状況にある。」と改める。

(一二) 二四八頁初行の「独立した」の次に「意義ないしは」を加え、同じ行から次行にかけて「を有するに至ること」とあるのを「が問題とされるごとき事態」と、同一〇行目の「の真正な成立が認められない」とあるのを「がその捜索差押当時の状況を撮影した写真でない」と改める。

(一三) 二五一頁三行目の「鑑識課」の前に「刑事部」を加え、二五三頁九行目の「医学部」を削除し、二六五頁末行の「七八三丁」の次に「、検証の結果」を加え、二七九頁五行目に「説明」とあるのを「説明が」と改める。

(一四) 二八八頁七行目に「とその鑑定」とあるのを削除する。

(一五) 二九六頁四行目に「請求原因5」とあるのを「請求原因3」と訂正し、二九七頁四行目にある鉤括弧の初めの片を削除し、二九八頁初行に「不規則」とあるのを「不規則形」と、同三行目に「滴下したりして」とあるのを「滴下して」と、二九九頁初行に「七付」とあるのを「七月」と、三〇〇頁二行目に「襟当の」とあるのを「襟当に」と、三〇二頁三行目に「二八日」とあるのを「二七日」と、同四行目に「一四七丁」とあるのを「一四三丁」と改め、三〇三頁の一の四行目の「左右」の前に「三木鑑定書によれば、」を、三〇四頁三行目の「検出されていない」の次に「から、襟当の血痕は被害者の返り血ではありえない」を加え、三〇五頁三行目に「九八丁」とあるのを「九七丁」と、三一〇頁初行に「前記5」とあるのを「前記1」と改め、同じく九行目の「前記認定のとおり、」とあるのを削除し、同じ行の「であった」の次に「(乙第二五号証の二一等)」を加え、三一四頁七行目に「偽造した」とあるのを「偽造された」と改める。

6(一)  三一五頁五行目の「追い詰めた」の次に鉤括弧の終わりの片を加える。

(二) 三一五頁末行から次頁初行にかけて「どうしても思い出せず頭がおかしくなりそうだった」とあるのを「どうしても判りませんでした今でも考へても判らないのですから判るはずが御座いません」と、三一七頁四行目に「読んだり」とあるのを「読み、現場の様子や状況すらおおよそのことは頭に入れていたというのであり」と、これに続いて「乙第四号証の三」とあるのを「甲第一一号証二四七丁、乙第四号証の二、前記否認の手記」と、同九行目に「与太者」とあるのを「素行不良者」と改め、三一八頁一〇行目の「四七の一」の次に「、丙第八二六号証」を加え、三一九頁四行目から五行目にかけて「ただちに信用しなかったとしても不合理とはいえない」とあるのを「直ちには信用せず、同原告が自己に不利益な事実に関する供述を避けていると考えたのはむしろ当然のことである」と改める。

(三) 三二二頁末行に「一七日」とあるのを「一八日」と改め、三二六頁九行目に「考えにくい」とある次に「し、原告幸夫の一二月一四日付員面調書によれば、原告幸夫は、『私は忠兵衛さん一家を殺して放火しましたが、そのときの本当の気持ちは大丈夫、警察に『バレ』ないだろうと思って居りました。火事で焼け死んだ位で済まされる事と思って居りました』との供述をしている(乙第四号証の二)」と加え、同じ行の「これを」から次行の末尾までを「これら関係人の供述の状況、原告幸夫のアリバイ供述の変遷等からすると、捜査員において、原告幸夫が、いろいろとアリバイを主張し、それらが崩された結果、弁解に窮し松山事件の犯行を自白するに至ったものと理解し、その自白に信用性ありと判断するのも、或る意味で尤もなことといわなければならない。」と改める。

(四) 三二九頁五行目の「⑥」を「②」と、三三〇頁一〇行目に「一三九四丁」とあるのを「一三九三丁」と改め、三三三頁二行目に「一四」とある次に「、三八、丙第一八号証」を、同八行目の「四七の一」の前に「四五、」を加え、三三四頁三行目に「が不自然、不合理であったという」とあるのを「をもって直ちにあり得ないこととして無視したり、考慮の外に置く」と、三三五頁八行目に「友子」とあるのを「トモ子」と改める。

(五) 三三九頁末行に「原告幸夫は」とあるのを「原告幸夫が」と改める。

(六) 三四一頁初行に「早坂」とあるのを「清」と、三四二頁初行の「それほど不自然」を「ありえない行動」と、二行後の「不自然」を「理解困難な心理状況」と、三四三頁八行目に「乙第一四号証の六」とあるのを「乙第一四号証の七」と改める。

(七) 三五二頁五行目に「一五キロメートル以上ある当時未舗装路であった」とあるのを「距離にして約一六キロメートル、車で約三〇分を要する(乙第五三号証、証人千葉彰男の証言)」と改める。

(八) 三五四頁四行目の「被告人質問」の次に「(丙第八二六号証)」を加える。

(九) 三六〇頁五行目に「被害者の」とあるのを「被害者らの」と、同じく七行目に「乙第三一号証の二ないし五」とあるのを「乙第三一号証の二ないし四、五の一、二」と、同八行目に「範囲のことであるし」とあるのを「範囲のことであり、これら鑑定が昭和三一年五月から一二月にかけて作成されていることを考慮しても」と改める。

(一〇) 三六七頁九行目に「第二審」とあるのを「第一審」と改め、三六八頁五行目の「あること」の次に「(乙第一号証の三)」を加え、同末行に「八二四」とあるのを「八二六」と改める。

(一一) 三七〇頁二行目に「現場から発見された物」とあるのを「現場から発見された物等」と、三七一頁初行から次行にかけて「からすれば不自然とまではいえない」とあるのを「、すなわち、原告幸夫の前記供述にあるように、夢中で凶行に及んだというのであれば、凶行行為の直接の対象とはなっていない周囲の状況を見定め把握するだけの遑も気持の余裕もなかったと見ることも十分に可能である」と、同二行目から三行目にかけて「不自然ではなく」とあるのを「異とするに足りず」と、同三行目から次行にかけての「不自然」から「しかも」までを「不思議ではない上に」と改め、三七二頁七行目の次に行を改めて「また、原告らは、本件の捜査本部が、小原宅八畳間で発見されたズボンとその北方八〇メートルの道路脇で発見された人糞と思われるものを昭和三〇年一一月一日付で県警鑑識課に鑑定嘱託し、同年一二月八日大沢堤で発見、領置した中古手拭を同月二八日県警鑑識課に鑑定嘱託したが、その後これらの捜査を中断したままにしており、更に、小原夫婦の三女・優子の同年一〇月二一日付員面調書(丙第四〇三号証)によると、同人が働いていた箭前一宛に小原嘉子からその筆跡でない手紙が来て、これにより当日実家に帰らなかったことから難を逃れているのに、その手紙についての捜査が行われていないことに疑問を呈している。しかし、手拭については、その後齋藤ヒデの同年一二月一三日付員面調書(乙第三号証の四)の七項、齋藤常雄の同月一四日付員面調書(乙第四号証の三)の一二項及び齋藤虎治の同日付員面調書(乙第四号証の四)の一〇項にある各供述に照らして、捜査員は、前記の手拭が日頃原告幸夫が使用していたものとは異なるとの認識を得ていたであろうし、ズボンや糞については、記録上その結果を知る資料がないことからすれば、格別犯行の手がかりとなるような資料の発見には至らなかったものと推認できる。また、手紙に関しては、前記優子の員面調書の趣旨は、小原嘉子から松山事件発生前日に翌日新田部落の祭典があるので来るようにとの連絡があり、箭前も一七日晩に優子を連れて行く予定でいたところ、その日は映画を見に行くことになって実家に帰らなかった、というものであって、特に疑問を懐かせるような内容ではない上に、その後手紙についての捜査をした形跡が記録上存在しないからといって、捜査が行われなかったと断定することもできないと言わなければならないし、しかも、その後の控訴人幸夫の自白の状況からすれば、これらは格別原告幸夫に質問して確かめる必要のあることであったとも考えられないのであって、いずれにしても右の非難は当たらない。」を加える。

(一二) 三七三頁五行目に「七」とあるのを「八」と、三七四頁六行目に「八二四」とあるのを「八二六」と改める。

(一三) 三八一頁九行目に「大津」とあるのを「大津丞」と改める。

(一四) 三八五頁初行に「重雄」とあるのを「重蔵」と改め、同一〇行目の末尾に続けて「更に、原告幸夫らは、検察官がこのようなことを動機として加えようとしたのは、検察官自身、借財や小原嘉子による材木購入の目撃の事実が動機となり得ないことを認識していたことを示すものである旨主張するが、渡辺智子に関する供述については、右のとおりに理解することができるのであるから、検察官が右事実をもってしては動機となり得ないことを認識していたとはいえない。」を加える。

(一五) 三八八頁四行目の「直ちに」から次行の「(三木証言)」までを「丙第七〇二号証(確定第一審における三木敏行の証人尋問調書)及び弁論の全趣旨によれば、その採取後直ちに三木助教授に血液型の鑑定が求められた」と改め、同六行目の末尾に続けて「もっとも、甲第三八号証、丙第一四七、第一四八号証からすると、原告ヒデについて、昭和三〇年一二月二八日に検察官から身体検査令状の請求がなされ、同日古川簡易裁判所から同令状が発付されたが、三木助教授から検察官服部良一宛の、原告ヒデの血液型を鑑定すべくその血液とともに鑑定処分許可状を預かった旨の『預り証』に押されている仙台地方検察庁古川支部の日付印が昭和三一年一月五日であることからすると、原告ヒデの血液型はその後に判明したのではないかと考えられないではないが、当時起訴を間近に控えた状況であったことを考えると、検察官としても、早急に血液型の判定結果を求めたであろうことが容易に推認され、しかも時期的に年末であったことを考慮すれば、右『預り証』の日付印というのも、年内に交付を受けた書面に、年が明けてから押印された可能性も十分に考えられるので、右『預り証』の存在も前記の判断を左右するものではない。」を、三八九頁初行の「供述」の次に「(乙第一号証の四九等)」を加え、同じく七行目に「襟当血痕の偽造は疑うべくもなく」とあるのを「捜査員が襟当に血痕を付着させたのではないかと疑わせるような事情はなく」と、次行の「5」を「二5(二)」と改める。

(一六) 三九六頁三行目の「各員面調書」とある次に「・乙第一号証の四六、四七の一」を、四〇六頁二行目の「供述とはいえない」とある次に「(なお、原告幸夫方では河北新報を購読していたとのことであるが、甲第三四号証は当時の河北新報の記事の抜粋であり、その中の昭和三〇年一〇月一九日付記事に、小原方八畳間において、六畳間側を頭にし、押入側から縁側の方へ忠兵衛、嘉子、雄一、淑子の順で横臥している図が書かれている。)」を加え、

四〇九頁四行目に「可能性が高いということができる」とあるのを「可能性を否定できない」と改め、同六行目の「実況見分調書」の次に「・乙第一号証の三」を加え、同八行目に「六」とあるのを「七」と改め、

四一〇頁二行目の「員面調書」の次に「・乙第一号証の四六、四七の一」を、同七行目の「員面調書」の次に「・乙第一号証の四八」を、四一一頁九行目の「員面調書」の次に「・乙第一号証の四六、四七の一」を、四一三頁六行目の「員面調書」の次に「・乙第一号証の四六」を、四一四頁初行の「員面調書」の次に「(乙第一号証の四七の一)」を、同一〇行目の「員面調書」の次に「・乙第一号証の四六」を、四一五頁初行の「員面調書」の次に「・乙第一号証の四七の一」を加え、

同四行目に「しかし、」とあるのを「右の」と、同五行目の「供述とが」から七行目の「また」までを「供述とは一見矛盾するようである。しかし」と、同一〇行目の「べきであり」から次行の末尾までを「ことも十分に可能であった。そして、仮にその相互の供述内容が実質的に相違していると取調官が受取ったのであれば、原告幸夫にその理由を問い質し、これを調書に記載したと思われるのに、後者の調書にそのような記述がないことからすれば、むしろ両供述は実質的に矛盾していると思わせるものではなかったとみるのが相当である。念の為に言うならば、このような状況についての数個の供述内容に変遷がある場合、その故にどれもが証拠価値を有しなくなったと判断しなければならないわけではない。」と改め、

四一七頁六行目の「員面調書」の次に「・乙第一号証の四六」を加え、同じ行に「を除き」とあるのを「では『忠兵衛さんのところの坂道を下りた道路のところに立って約二十分位見て煙が外に出て来たので元の道路を戻って帰宅したが、その途中にある大沢堤で血痕の付着した着衣を洗った』とし、詳細は後で述べる旨の供述記載があるが、その後の自白に際して」と改め、四一八頁七行目の「当初の」の次に「前記」を、同末行の「った」の次に「し、六日夜に初めて自白した際のものであって犯行の概略を述べるにとどまったと考えることもできる」と、四一九頁末行の「というだけで」の前に「(丙第三号証)」を加え、

四二二頁四行目に「一〇日」とあるのを「九日」と、次行に「乙第四号証の三」とあるのを「乙第五号証の四」と改め、四二三頁六行目に「曇っていたが、」とあるのを削除し、次行の「供述し」の次に「(乙第一号証の四七の一)」を加え、四二四頁九行目に「その夜に雨が降った」とあるのを「本件火災発生当時雨が降った」と改め、四二五頁三行目の「考えられる」の次に「し、更に、松山事件発生前後には丁度雨が止んでいた可能性もある」を加える。

(一七) 四三〇頁七行目の「約三分」の次に「、丙第一〇号証」を加え、四三一頁五行目に「大津」とあるのを「大津丞」と改める。

(一八) 四三二頁三行目の「員面調書」の次に「(丙第六〇八号証)」を加える。

(一九) 四三四頁初行に「初めて」とあるのを「に」と、四三五頁初行に「隠しては」とあるのを「隠しても」と、同四行目の「松山事件」から同七行目の「と言っていたこと」の前までを「一二月六日朝には『一七日晩に小牛田駅まで来たことは覚えているが、それから一九日朝まではどこで何をしていたのか全然解らない。」と、松山事件を自白した晩の翌朝(一二月七日)には『俺はやらないんだ』」と、同八行目の「棒」から次行の「まさかりと、」までを「まさかりと述べたり、斧と述べるなど」と改める。

7  四三九頁四行目に「嫌疑で」とあるのを「嫌疑が」と、四四五頁五行目に「低い」とあるのを「低く、その自白の信用性が高い」と改め、四五〇頁五行目の「したがって」の前に「更にこのことは他の公判不提出記録を検討しても同様に考えることができるのであって、」を加える。

三  控訴人らの当審における主張について

控訴人らの主張には原審での主張と基本的に共通しているものが多いので、以下においてはその主要な主張について判断する。

1  控訴人らは、宮城県警察の行った捜査が違法であることの一つとして、本件掛布団について、古川警察署長から古川簡易裁判所に対して鑑定人を平塚静夫、富谷定儀とする鑑定処分許可が請求され、その旨の鑑定処分許可状が発付され、県警本部鑑識課長宛に鑑定嘱託がなされたが、県警鑑識課の鑑定結果が思わしくないと知るや、捜査員は、この鑑定処分許可請求書中の鑑定人の氏名を三木敏行と書替え、また、鑑定嘱託書の宛先も同様に書替えて、三木敏行を鑑定人とする鑑定処分許可状は存在しないのに、昭和三〇年一二月九日付で同人が鑑定嘱託を受けたように装い、事実上の鑑定を行わせた旨主張する。

しかし、本件掛布団押収の経過、その鑑定嘱託の経過は、先に引用の原判決が説示するとおりである。その要点を再記すれば、昭和三〇年一二月七日付捜索差押許可状に基づき佐藤健三ら古川警察署員らは同月八月午後に齋藤常雄方を捜索し、常日頃控訴人幸夫らの布団の上げ下ろしをしていた同人の祖母きさの説明に基づいて、本件掛布団等を控訴人幸夫使用のものとして押収し、本件掛布団は敷布等とともに翌九日に三木敏行に対して鑑定嘱託されているのである。そして、その鑑定処分許可請求書をみると、当初県警本部鑑識課員の平塚静夫及び富谷定儀と記載されていたのが抹消されて「東北大学法医学教室三木敏行」と記載され、古川警察署長作成の鑑定嘱託書でも、その宛先が宮城県警察本部鑑識課長から三木敏行宛に訂正されているが、証人八島孝の証言によると、これら両書面はいずれも同人が作成し、上司の指示により鑑定人を訂正した上、鑑定処分許可請求及び鑑定嘱託がなされたとのことである。なお、記録中に右鑑定にかかる裁判所発付の鑑定処分許可状は存在しないのは事実であるが、三木鑑定書には、「古川簡易裁判所裁判官佐藤秀元の発した鑑定処分許可状に基き、古川警察署長は、被疑者斉藤幸夫に対する殺人放火被疑事件につき、昭和三十年十二月九日、次の鑑定資料につき、左記事項の鑑定をなすことを私に嘱託した。」との記載があるので、当時鑑定処分許可状が存在したことは明らかである。控訴人らの主張の前提となっているこの鑑定処分許可状の不存在という事実は、憶測に過ぎないものである。また、控訴人らは、鑑定処分許可請求書は裁判所に鑑定処分許可状を請求する重要な文書であるから、鑑定の宛先を書き違えた場合には、別の用紙に書き直して請求すべきであり、そうすることが容易であるのに、訂正の上使用するというのは理解しがたいこと、富谷定儀が証人として、本件掛布団について、県警本部鑑識課に宛てられた鑑定嘱託書及び平塚と富谷に宛てられた鑑定処分許可状を見たと供述していること等を指摘するが、八島証人が述べるように、それが如何に重要な文書であっても、鑑定処分許可請求書の一部を訂正して利用することはあり得ないことではないし、そして、証人富谷定儀の証言中には、確かに前記のような供述部分もあるが、同人の証言を全体としてみれば、結局当該供述部分を否定する内容となっているのである。

なお、東北大学法医学教室に嘱託して送付された甲第四一号証の三の鑑定嘱託書によると、昭和三一年三月二四日付で検察官から三木敏行宛に「昭和三十年十二月九日付古川警察署司法警察員及川正美が貴殿鑑定嘱託した掛布団に若し血痕が附着しているとすれば 1 その附着状況(その位置、状態、数量) 2 右血痕は如何なる場合如何なる状況において如何なる方法により附着したものであるか」との鑑定嘱託をしたことが認められることを根拠に、控訴人らは、昭和三〇年一二月九日付で三木に対し鑑定が嘱託されたように装おうとする検察官の発想が昭和三一年三月二四日頃までに生じていた旨主張する。しかし、この後者の鑑定嘱託は、当初の鑑定嘱託にかかる事項について、より詳細な鑑定を求めるためのものであると解するのが合理的であり、控訴人ら指摘のような意図があったとするのは穿ちすぎというべきである。

2  控訴人らは、警察の捜査が「人から物へ」という自白偏重の捜査方法であると批判し、その一つの現れであるとして、当時の控訴人幸夫の着衣であると古川警察署刑事係長亀井安兵衛も認識していた本件ジャンパー、ズボンについての平塚着衣鑑定の結果が、控訴人幸夫の自白と矛盾している事実を無視ないしは切捨てて、あくまでも自白を重視してきたことを論難する。そして、捜査活動が警察と検察とによりそれぞれ相補いながら行われるものであり、その結果、保全された証拠は検察官による起訴、不起訴という終局処分の資料として集約されることからして、検察官も証拠の収集と、収集された証拠の評価・検討並びに捜査の適法性保持に当たっては、警察の捜査員と共同行為者とみるべきであるから、本件において警察が捜査上犯した不法行為責任については検察官もその責に任ずべきものである旨主張する。

しかし、控訴人幸夫は、捜査の過程で有力容疑者の一人として絞り込まれ、別件の傷害事件で逮捕、勾留されるうち、逮捕から四日後の昭和三〇年一二月六日夜に松山事件の犯行を自白し、同月一五日に「否認の手記」を作成したものの、翌一六日の取調べに対しては自白を維持したのである。身柄拘束が長期に及んだ末とか、拷問・脅迫は論外としても、これに近いような無理な取調べが行われたわけでもないのに、このように比較的簡単に自白し、それを継続してきていたのであって、当時の他の関係証拠と照らし合わせると、そのことが控訴人幸夫が真犯人に間違いないとの判断に至らせた重要な一要素であったということができるのである。

なお、右の自白や夜間検証時における同控訴人の態度については、原判決の四二五頁八行目から四三一頁八行目までに記載してあるが、補足するに、証人大津丞の証言によれば、傷害事件で逮捕後の弁解録取の際、態度に落着きがなく、余罪があるとも述べ、夜間検証の際も、真犯人でなければこれだけ具体的で詳細な現場指示はできないであろうとの心証を得たとの印象が三三年後の右証言時にも残っているとのことであり、同旨の供述は当審で控訴人らが提出した甲第三九号証にも見られる。

本件ジャンパー、ズボンに関しては、亀井安兵衛係長が確定第二審で証人として採用され、期日外尋問を受けているが、その尋問事項中には「被告人が当時(犯行時及び検挙時)着用していたと称する着衣(ジャンパー、ズボン等)について血痕附着の有無を鑑定したか」等とあり、同人は尋問期日において弁護人から「検挙して来た当時本人が着ていたジャンパーなどは犯行当時着ていたものと同じということでしたね。」と問われ、「大体はそうです。そのうち東京へ持って行ってたのもありましたし、それらも一応押えて鑑定を嘱託した筈です。」と答えているところ、ジャンパー等に関する問答はこの部分以外にはなく、前記の尋問事項とこの問答からは亀井が本件ジャンパー、ズボンを控訴人幸夫の事件当夜の着衣であるのに相違ないと考えていたと確定することはできない。

したがって、捜査員が本件ジャンパー、ズボンを控訴人幸夫の事件当夜の着衣であると断定していたのではないので、これに血液の付着は認められないとの鑑定結果を敢えて無視ないしは切捨てたということにはならない。その他の証拠類についても、捜査が足りなかったとか、吟味不十分であったなどとの非難に価するような事情は窺われない。

3  控訴人らは、公訴提起の時点では、控訴人幸夫と公訴事実を結び付ける物的証拠はなかったとし、そのことは担当検事である大津丞の論稿「ある事件捜査の教訓」において、三木鑑定が取り上げられていないことからも明らかである旨主張する。

ところで、右論稿というのは、甲第三九号証の法務研修所発行の昭和三二年九月号に掲載されたものであるが、その趣旨は、自供はあるものの証拠の少ない事件における証拠固めの方法についての紹介として松山事件を例に挙げたに過ぎないのであって、ここに三木鑑定が取上げられていないからといって、物的証拠がなかったということにはならない。

4  控訴人らは、本件ジャンパー、ズボン等の着衣の鑑定により人血痕が付着しているという証明ができなかったのであるから、検察官としては、控訴人幸夫が犯人でない可能性が高く、自白の信用性に疑問を持つべきであったし、仮に本件ジャンパー、ズボンが犯行時の着衣でないと考えたのであれば、犯行の決め手となる着衣特定の捜査をしないまま、自白のみによって控訴人幸夫を起訴したことになり、その違法性は明白且つ重大であるが、前掲甲第三九号証から明らかなように、検察官は本件ジャンパー、ズボンが犯行時の着衣であることに疑いを持っていなかったし、この点は確定審の裁判官も同様である旨主張する。

しかし、検察官において、血液の付着は認められないとの鑑定結果が出ていた本件ジャンパー、ズボンを控訴人幸夫の事件当夜の着衣であると断定していたとまでは到底認めがたいことは前記2の場合と同様であり、当時の検察官がこれらを必ずしも事件当夜の着衣であるとは限らないと考えていたことは、証人大津丞の証言からも窺えるのである。前掲甲第三九号証中には、「犯行時着用して居た洋服類は、何度も洗濯されて居る為血液等の附着が認められ」ないとの記載はあるが、犯行時着用していたとの事実の裏付については何も触れていないので、「犯行時着用していたと『される』洋服類」の趣旨に理解するのが穏当であるほか、そもそも同論稿執筆の意図がそのような着衣特定の点にないことは明らかであるので、同書証の記載は右の判断を左右するものではない。そして、控訴人幸夫の着衣等に関連すると思われる多数の物品が領置され、そのうちのあるものは鑑定に付されたことは乙第一二号証の一二ないし三二等から明らかであり、それらから血液の付着が認められなかったのであるから、それ以上に事件当夜の控訴人幸夫の着衣を特定できなかったからといって、その捜査に手落ちがあったとはいえない。

なお、確定第二審判決は、「当時被告人の着用していたジャンパー及びズボンには血痕斑は発見されなかったが、被告人の捜査官に対する供述及び上部道子の検察官に対する供述調書によれば、前記の如くジャンパーとズボンは犯行直後に大沢堤の溜池で土を混ぜてゴシゴシ洗ったばかりでなく、その後ジャンパーは一〇月二七日頃姉美代子が、ズボンは一一月一五日頃東京の上部道子が洗ったことが明らかであるから、ジャンパー及びズボンに血痕斑を発見しなかったとて必ずしも異とするに足りない」と説示している。しかしこれは、掛布団の襟当の血痕を証拠に出しながら、被告人の着用していたジャンパーとズボンが証拠として提出されていないとの批判に答えた箇所での記述であり、検察官から証拠調請求がなされず、したがって裁判所も有罪認定の証拠とした物件ではないのであるから、着用の有無は認定外の事項であることはその前後の説示から明らかである。それ故、右記述は表現として適切さを欠いた憾みはあるものの、このことから直ちに審理を担当した裁判官が本件ジャンパー、ズボンを事件当夜の着衣であるとまで断定的に考えていたというのは当たらない。確定第二審判決には、他にも当夜控訴人幸夫が本件ジャンパー等を着用していたことを前提とするかの如き記述が見られるが、これらも右と同様に理解すべきものである。

5  控訴人らは、仮に検察官が収集証拠中の一部を提出してもしなくても自白の信用性の評価に影響がないと判断し、その結果不提出記録なるものが生じたのであるとすれば、その判断が誤りであることは再審開始決定や無罪判決で明らかにされたのであるから、控訴人幸夫は、このような検察官の判断の誤りにより真実の発見が遅れ、死刑囚として二五年近く身柄が拘束されることになったのであるとし、この過誤は公判遂行上の重大な違法である旨主張する。

しかし、再審開始決定や無罪判決が確定したからといってそのことだけで公訴の追行が違法となることはないのであり、本件における検察官の公訴の追行を違法とすることができないことは、原判決が四四七頁四行目から四五三頁七行目までに説示するとおりである。

6  控訴人らは、三木鑑定は誤鑑定であり、本件掛布団襟当部分の斑痕は生活汚斑にすぎないことを前提として、自白を裏付ける証拠のない違法な公訴の提起であった旨主張する。

(一) 三木鑑定は誤鑑定か

(1) 《証拠省略》によると、次の事実が認められる。

三木鑑定人は襟当を子細に肉眼的に観察して多数の斑痕を認めたが、経験上、これら斑痕のうち、その色調が赤褐色を呈し、かつ、その光沢や広がり方の具合、周りのしみ込み方などから普通の血痕の性状と一致するものは血痕であると判断し、血痕らしくない色調(淡黄褐色、微黄褐色、微黄色調等)、光沢、広がり方を示した斑痕については、血痕でないと判断した上、その肉眼的観察検査の正しさを検証するため、血痕ではないと判断した斑痕四群について個々に血痕予備試験を行ったところ、当初の判断のとおり陰性の成績となった。

次に肉眼的観察検査では血痕と判断されるものの色調が薄いことなどから、血痕の本試験を行っても陽性結果が必ずしも期待されない斑痕を主体とする斑痕一四群について個別的にグアヤック検査を行い、更に、同検査を経た五群を含む七群について個別的にルミノール検査を行ったところ、グアヤック検査で疑陽性となった一群を除いて、一五群すべてが陽性の成績となり、更に、肉眼的観察検査において明らかに血痕と判断された一〇群及び血痕予備試験を経た二群について個別的に血痕本試験を行った結果、すべて陽性の成績となった。

ところで、三木鑑定が行われた当時の血液型鑑定の方法では、ごく微量の斑痕が多数存在するという案件においては、その個々の斑痕について、血痕予備試験、同本試験、人血検査、血液型検査の全過程を行うことは不可能ないし至難のことであった。そのため同鑑定人は、一部の斑痕について血痕予備試験、同本試験を行うことにより、自己の肉眼的観察検査の正確さを証明しつつ、明らかに血痕であると判断したその余の斑痕については、右試験を省略して専門的経験に基づく肉眼的観察検査により血痕であると認定する判断方法をとり、前記のような結果を得たものである。

そこで、右肉眼的観察検査によって血痕と判定したうちから襟当表側八群(うち二群「カ」「コ」は血痕本試験でいずれも陽性反応の結果となっている。)と裏側九群(うち二群「れ」「お」は血痕予備試験でいずれも陽性反応の結果となっている。)をそれぞれ集めて浸出液を作り、それぞれの浸出液について人血試験を行い、その結果いずれもが陽性反応を示したことから、人血であると判定した。なお、この際用いた抗ヒトグロビン血清は、予め身近な動物血液の一〇〇〇倍以上の稀釈液では沈降反応を起こさないことを確認済のものである。

最後に三木鑑定人は、血液型の検査において、あらためて襟当の表裏合計二三群の斑痕(うち抗ヒトグロビン血清による沈降検査を経た斑痕は表側「ホ」、裏側「ろ」の合計二群である。)を採取してこれを二つに分け、一方に抗A血清、他方に抗B血清を加えて浸出液を作り、それぞれに対応する型の血球を加えて凝集反応をみる型特異的凝集素の吸収試験を行った結果、力価八倍の正常ヒト抗A凝集素が強く吸収されていて、人血のA型反応を強く示していた。

(2) また、《証拠省略》によると、次の事実が認められる。

鑑定人古畑種基は、確定第一審において本件襟当付掛布団に血痕が付着しているかどうか、付着しているとすれば人血かどうか、人血であるとすればその血液型如何等についての鑑定を命じられ、昭和三二年七月一七日付鑑定書を作成した。

右鑑定において、血痕による型的凝集素の吸収試験では、抗A、抗B、抗O凝集素を、布地のきれいな部分の対照に比べ十分強く吸収して、その血液型は一見AB型とも判定されるのであるが、血液のついていない他の部分の対照がいずれも抗B、抗O凝集素だけを強く吸収する傾向があるところから、血痕によるこれら抗A、抗B、抗O凝集素の吸収のうち、抗B及び一部の抗O凝集素の吸収は血痕そのものによるものではない可能性が大きく、その血液型はむしろA型と判定した方が妥当であると考えられるとしている。

(3) 以上によると、古畑鑑定では抗B凝集素の吸収も認めているのに、三木鑑定では抗A凝集素のみが強く吸収されていて一見矛盾するかのようであるが、古畑鑑定によると、襟当の汚れている部分で特に強く抗B、抗O凝集素を吸収していること等からすると、それらは血痕以外の反応が出ていると考えることもできるから、三木鑑定と古畑鑑定とは実質的に矛盾がないということもできる。

なお《証拠省略》によると、岩手医科大学教授の桂秀策は再審の審理過程において、本件掛布団襟当等についての鑑定を嘱託され、昭和五八年一〇月二一日付鑑定書を提出し、結論として、人血の存在を証明することができなかったとしている。しかし、その鑑定の経過に関する記載中に、襟当に人血が付着したと思われる時点から比較的短期間後に検査された上での成績であれば、襟当に人血は存在しないと考えてよいと思われるが、実際には相当長期間経過した後に検査したと考えられること、肉眼的に血痕と思われるものが微量で、かつ襟当に酸臭があり、この影響を受けて血痕が変性してしまって抗原となる血色素が全くなくなったとか、顕微沈降反応出現の過程に障害が生じたことなどが推定されるので、各試験が陰性に終わったことも考慮しなければならないとしているところからすると、同鑑定は、前記三木、古畑の各鑑定の結果を左右するものではないというべきである。

したがって、本件襟当に存在した斑痕が生活汚斑に過ぎないとの控訴人らの主張は理由がない。なお被控訴人らは、この控訴人らの主張を時機に遅れたものであると主張するが、控訴人らの主張はこれまでの審理にあらわれた証拠評価の結果としての主張に止まると解せられるから、その主張が許されないとして排斥するほどのことはない。

(二) 控訴人らは、公訴提起が違法であることの一根拠として、男下駄二足が昭和三〇年一二月七日に押収され、その領置調書備考欄に鑑定依頼と記載されていて、県警鑑識課が鑑定中であったから、一二月九日にこれらが三木助教授に鑑定嘱託されることはありえないという。この主張の趣旨は必ずしも明確ではないが、領置調書の備考欄に鑑定依頼との記載があるからといって県警鑑識課に鑑定依頼しているとは限らない。また、この男下駄二足から血痕の付着を立証できないことは三木鑑定書から明らかであるが、この下駄のうちの一足を本件事件当夜控訴人幸夫が履いていたと断定できるような証拠はないから、この下駄への血痕付着の立証がないからといって控訴人幸夫が犯人である可能性を否定することになるものでもない。

(三) 次に、控訴人らは、起訴検察官は解剖所見などからして、本件の薪割では説明できない創があることを知っていたから自白に疑問を抱くべきであったと主張する。

甲第二六号証中の昭和三〇年一〇月二七日午前一〇時の電話箋には、松山事件の被害者四名の創傷の状況と凶器との関係について、「斧、薪割りを法医学教室村上教授の下に持参し解剖の結果と考合せたところ(1)斧、薪割りで説明できる創もあるが説明できない創が多い。(2)二丁の鉈で説明するならば土のつかない鋭利な方の鉈なら創の説明ができる。(3)以上四つ(斧、薪割り、鉈二丁)の兇器で事件に関係なく解剖の創を説明するなら(2)の鋭利な方の鉈なら説明ができる。」との回答連絡を受けた旨の記載がある。

ところで、《証拠省略》によると、本件被害者ら四名の死体について、昭和三〇年一〇月一八日にその死因等を確定するための鑑定が三木敏行、高橋建吉、村上次男の三名に嘱託され、そのための解剖が同日午後六時三〇分頃から翌一九日午前一時頃にかけて行われ、その解剖には司法警察員佐々木信一らも立会った。また、本件火災現場付近からは、斧、薪割、そして鉈二丁が発見されている。

そして、前記四名の死因等に関する鑑定書(その作成日付は昭和三一年五月二日から同年一二月二六日、乙第三一号証の二ないし四、五の一及び二)によると、

(1) 小原嘉子の創傷については、村上教授が鑑定書を作成し、「仰臥する被害者の前(右)か後(左)か、何れか一側から、加害者が襲撃したものとすれば、凶器の刃線の長さは八糎又はその前後にあり、その両端が断れて居て、斧のような凶器であったと推測される。被害者の前(右)と後(左)との両側から加害者が襲撃したものとすれば、右に述べた斧のような凶器か、或は又、刃線の長い鉈のような凶器かの何れかであろうと考えられる。」、

(2) 小原雄一の創傷についても、同教授が鑑定書を作成し、「凶器は、鋭利な刃があり、人体に打ち込み、頭蓋骨を割截することの出来るような性質のある日本刀、銘、斧などのようなものであると考えられる。」、

(3) 小原忠兵衛の創傷については、三木助教授が鑑定書を作成し、「死体の割創は、刃はあるが甚だしくは鋭利でなく、刃線の長さは八・〇糎以上あり、かなり重さのある刃器により生じたと推測される。」、

(4) 小原淑子の創傷についても、同助教授が鑑定書を作成し、「頭頂部左半右後側から左の側頭部後側にかけてある割創は、刃はあるが甚だしくは鋭利でなく、かなり重さのある刃器により生じたと推測される。刃器の刃の長さは、七・〇糎以上あったと考えられる。」

との各記載がある。

しかし、前記鉞(薪割)は、小原方八畳間の焼け跡にあった雄一と淑子の各頭部の中間あたりから発見されていて、それが凶器として使用された可能性が当然に疑われる状況にあり、しかも、前記電話箋によっても薪割が凶器であることを肯定する創傷も存在していたというのであるから、薪割で凶行に及んだという控訴人幸夫の自白に接した検察官としては、当時鑑定書は送致されていなかったものの、直接的或いは間接的に村上教授及び三木助教授から被害者らの創傷の部位、程度を確認したと考えられる。そして、前記鑑定書に記載のあるような状況と、殺害方法に関する控訴人幸夫の自白の内容(先に引用した原判決三五八頁五行目以下参照)からすると、薪割が凶器である可能性を全く否定し去ることはできないというべきであるから、検察官がこの自白に疑問を懐くべきであったとはいえない。

(四) 三木助教授に対する鑑定嘱託は一二月九日にはなされていなかったか

控訴人らは、前記1のような主張をし、更にそのことを前提として縷々主張するのであるが、それが理由のないことも当該部分で説示したとおりであり、このような主張を前提とする主張はそもそも理由がない。

7  控訴人らは、三木鑑定が誤鑑定であることを理由に、検察官による公訴の維持が違法であったと主張する。

しかし、その理由がないことは前記6(一)で述べたとおりである。したがって、これを前提とする控訴人らの主張は理由がない。

なお控訴人らは、三木鑑定の確定審における証拠としての採用経過についての疑問を呈するので、この点について補足しておくと、《証拠省略》によると、次の事実が認められる。

(一) 確定第一審の第二回公判(昭和三一年三月二〇日)において、検察官は証拠により証明すべき事実のうちに、控訴人幸夫は帰宅後家人に気付かれないように自分の布団にもぐったが、その掛布団に血痕の付着している事実等を掲げ、証拠調べの請求をしたが、その際請求予定の証拠も示されていて、その中の一二三番の掛布団、一二四番ないし一二六番の各鑑定書(これらはいずれも右に掲げた冒頭陳述部分の立証を目的としている。)はいずれも追って請求するとされていた。

(二) 第一六回公判(昭和三二年三月二三日)において、検察官から、犯行帰宅後被告人(控訴人幸夫)が着て寝たもので血痕が付着していたもので血痕の付着部分を鑑定の資料としたものとして前記一二三番の請求予定証拠である本件掛布団が証拠調請求され、証拠として採用された。

(三) 第一七回公判(昭和三二年四月一〇日)において、検察官から、前記一二四ないし一二六番の各鑑定書が真正に作成されたことを立証趣旨として三木敏行を証人として申請し、確定第一審はこれを採用したが、同期日に弁護人は、前記一二三番の本件掛布団に付着していた血液が被告人の家族のものであることの立証として、三木鑑定人が本件掛布団から切取った血痕の提出を同人に求め、これと被告人の弟齋藤彰の血液型の異同についての鑑定が申請された。

(四) 三木敏行に対する証人尋問は公判期日外の昭和三二年四月三〇日に仙台地方裁判所で実施されることになり、昭和三二年四月二二日に検察官から左記の事項を尋問事項とする同証人に対する尋問事項書が提出され、同日確定第一審裁判所も検察官提出の尋問事項書のとおりに定めた。

(1) 証人は昭和三〇年一二月九日古川警察署長より被疑者齋藤幸夫に対する殺人放火被疑事件につき掛蒲団等に血液が附着しているかどうか、附着して居ればその状況及び被害者等の血液型と一致するか否かの点つき鑑定を嘱託された事があるか

(2) あればその結果如何、鑑定書は作成したか

(3) その頃被告人の血液型を鑑定した事があるか、あればその結果

(4) その後仙台地検古川支部検事服部良一より被告人齋藤幸夫の家族の血液につき鑑定を嘱託された事があるか、あればその結果如何

(5) その他関連事項

(五) そして、三木証人に対する尋問は予定どおりに実施され、同人は、①本件掛布団について血痕が付着しているかどうか等の鑑定を昭和三〇年一二月九日に古川警察署長から嘱託されたこと、②その鑑定の経過と結果については、鑑定書を作成して古川警察署長宛に提出していること、③その頃控訴人幸夫の血液型も鑑定したが、それは本件掛布団の鑑定よりも後と記憶しているが、未だ鑑定書は提出していないこと、④更にその後の昭和三〇年一二月末頃に服部検事から控訴人幸夫の家族の血液型についての鑑定を嘱託されたが、これについても未だ鑑定書を提出していないこと、⑤同人作成名義の昭和三二年三月二三日付鑑定書(三木鑑定書)を示され、控訴人幸夫及びその家族の血液型、そして鑑定の手法についての簡略な説明、⑥本件掛布団は県警本部鑑識課の菅原利雄から交付されたこと等を述べている。

(六) 第一八回公判(昭和三二年五月九日)において、右の証人三木敏行の尋問調書が職権で取調べられ、検察官は、刑事訴訟法三二一条書面として三木鑑定書を前記一二四番の証拠として取調べを請求するとともに、前記一二五及び一二六番の各鑑定書は請求しない意思を表示した。そして、三木鑑定書は同公判で取調べられた。

以上認定の事実に、既に説示した三木鑑定人に対する本件掛布団の鑑定嘱託の経緯に照らすと、尋問事項書では、三木鑑定書については鑑定書作成の有無も尋問事項となっているのに、その余については鑑定嘱託の有無に止まっているのであるから、この四月二二日の段階では、検察官も当然に三木鑑定書を入手しており、反面、血液型に関する鑑定書は作成されていなかったことが窺われる。控訴人らは、前記一二四ないし一二六番の証拠について弁護人の同意・不同意の意見が徴されていないことを不可解というが、同証人として格別鑑定書作成の経緯を偽る理由はないこと、昭和三二年三月二三日の第一六回公判において本件掛布団の証拠調べが行われていることからすると、検察官としては、三木鑑定書が作成されたことにより、血液型についての鑑定書も近々提出になるであろうとの認識のもとに、第一七回公判で三木鑑定人をそれらの作成の真正を立証するために証人として申請したのではないかと考えられるのであり、弁護人も、第一六回公判で本件掛布団が取調べられていることからするとその際三木鑑定書を閲覧した可能性があることを否定できず、遅くとも第一七回公判当時には閲覧していたことが窺えるのである(本件掛布団から三木鑑定人が血痕を切取ったことを前提として鑑定申請をしている)。そして、このように他の鑑定書がない状況のもとで、取り敢えず同人を証人として尋問することとなったことが窺えるのであって、以上のような状況は三木鑑定書の真正な成立をなんら疑わせるようなものでない。なお、控訴人幸夫の家族の血液型については、検察官から村上次男教授に対して鑑定嘱託がなされているのであるが、当時の東北大学法医学教室では同人が主任教授であったことから同人宛に鑑定を依頼し、同教授が実際の鑑定実施者として三木助教授を指定したことが考えられるので、同助教授がその血液型の鑑定を担当したとしても何ら不思議でなく、また、三木助教授が直接控訴人幸夫の血液型の鑑定を依頼されたことを明らかにする証拠は記録上存在しないのであるが、このことから同人による鑑定書の作成経緯について不審の念を懐くというのは、思い過ごしの部類に属する。これらの点に関する控訴人らの主張は、誤判の原因を究明するとの観点から独自の主張を展開しているに過ぎない。

四  まとめ

以上検討したとおりであるので、当裁判所としては、国家賠償法上の違法に該当するだけの捜査活動が行われたと認定することはできず、検察官による公訴の提起、追行にしても、当時控訴人幸夫が有罪であることを指向する有力な証拠が存在していたので、起訴時或いは公訴追行時の証拠の状況からすれば、検察官として有罪の心証を形成したことにそれなりの合理性があったということができるのであり、更に、確定審の裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使した等の特別事情があるとも認められない。

よって、原判決は正当であるので、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林啓二 裁判官 吉田徹 比佐和枝)

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